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『Frindle』でちょっと泣きそうになったり。 [レビュー]

買って途中まで読んだままになっていたことを思い出し、引っ張り出して最後まで読みました。アメリカなどでロングセラーになっている児童『Frindle』(洋書)です。

Frindle

Frindle

表紙のど真ん中にそびえたっているのがFrindleです。ただのボールペンやん!と思った方はもう術中です。舞台はアメリカ。「考えることが好き」な主人公・ニックの思いついたことが地元でじわじわと広がり、ローカル新聞に取り上げられ、その記事を読んだローカルTVに取り上げられ…と騒動が展開していくお話。

全編を通じたメインテーマは「ことば」です。世界の片隅で生まれた一つの「ことば」が、たくさんの「ことば」を通じて大きく変貌をとげていくところが醍醐味です。

「ことば」がテーマのお話なので、サブストーリーもすべて、「ことば」にまつわるあれこれです。

そのなかでも秀逸だと思ったのが、マスコミ(とそれを取り巻く人々の行動)の描き方。とてもリアルです。単純な良し悪しで決めつけるのではなく、マスコミがどういう論理で動いていて、それが”結果的に”人々にどういう影響をもたらすのか、その部分を中立の目線で丁寧に描写しているのです。

日本でもようやく「メディア・リテラシー(media liteacy)」の必要性が語られるようになりつつありますが、カタカナ語で輸入してしまっているせいか、ただマスコミを否定すればいいと誤解されているフシがあります。本来の「メディア・リテラシー」は「情報を識別する能力」を指す言葉で、マスコミ情報を鵜呑みにしたり、その裏返しで根拠なく否定したりするのではなく、一つ一つを評価できるようになろうね、ってやつです。

この本は児童書なので、そういう小難しい用語は出てきません。素朴なお話の積み重ねで、自然と「メディア・リテラシー」が身につくように工夫されています。日本の児童書でこの手の話題を扱っているものはあるんでしょうか。ちょっと思いつきません。

もう一つ印象的な「ことば」が、ニックが先生から受け取る手紙です。これまた素朴で、感情的でも事務的でもない淡々とした内容。なのに、このくだりをマクドナルドで読んでいて、チーズバーガーをかじりながら思わず泣きそうになってしまいました[小雨]

小学生低学年向けの本なので、日本の中学英語レベルがあれば辞書なしで読めます。リスニング用のCDも出ているようで↓

Frindle

Frindle

  • 作者: Andrew Clements
  • 出版社/メーカー: Listening Library (Audio)
  • 発売日: 2004/09/14
  • メディア: CD


ほしい…とか思ってみたりして。


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映画『おくりびと』の”シナリオ”を読んでみる/ネタバレあり [レビュー]

悪運が強いのか、それとも最盛期の系譜を受け継ぐ良識派がまだ残っているのか。テレビ局としては完全落ち目のTBSが製作した『おくりびと』が、米アカデミー賞・外国語映画部門を受賞して大ヒット・ロングランでございます。

そんなわけで遅ればせながら観てみようと思ったのですが、なんと日曜日、いつかはきっと送り出される方々で大混雑(rio含む)。「大阪人は並ぶことを極端に嫌がる」なんてことを言われることがありますが、そんなことはないんですよ。5分ぐらいなら並びます。

きょうはたまたま5分以上かかりそうだったので、映画を観る代わりに、『おくりびと』のシナリオを読むことにいたしました。ノベライズ本でもコミック本でも原作でもなく、シナリオ。↓こんな感じになってるものです。

※Amazonでは新本がなく、中古本は約3000円という高値になってますね…。

雑誌『シナリオ』2008年10月号から引用)

シナリオ 2008年 10月号 [雑誌]

シナリオ 2008年 10月号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: シナリオ作家協会
  • 発売日: 2008/09/03
  • メディア: 雑誌


○冬の庄内平野
     雪化粧された庄内平野の田舎道を一台の古いライトバンが走っている。

○車内
     車の助手席で煙草をふかしているのは、納棺専門会社の社長、佐々木生栄。運転
     席でハ
ンドルを握っているのは、新人納棺師の小林大悟である。
大悟M 「子供の頃に感じた冬は、こんなに寒くなかった」
     うっすらと雪が積もった集落の中に車は向かっている。


※Mはモノローグ(独白)の略。

↑これ、映画の冒頭の場面です。この短い2場面だけで、『おくりびと』というタイトルがどういう意味なのか、考えなくてもわかる仕掛けになっています。それだけでなく、主人公が舞台となっている地域の出身であることや、主人公と隣に乗っている男(佐々木)との関係性までわかります。

こんなふうにあとづけで説明するとカンタンなことのように思えてしまいますが、何もない状態からこの冒頭を生み出すのは至難の技だと思います。「映画は監督のもの」と言われ、脚本家は黒子であることが多いのですが、こういう冒頭を見ると、どんな手練がこの脚本を書いたのか?と気になりますよね。

実は、上記の雑誌『シナリオ』にインタビューが載っています。小山薫堂(こやま・くんどう)。江戸時代の書家みたいな名前ですが、本名だそうです。1964年生れの熊本県出身。放送作家として、人気番組『料理の鉄人』『カノッサの屈辱』『トリセツ』などを手がけ、ラジオや雑誌にも登場するほか、なぜか日光金谷ホテルの顧問も務めているというマルチぶり。

その小山さんがはじめて書いた映画脚本が『おくりびと』だったそうなんですね。面識のないプロデューサーからオファーが来た、というエピソードもなにか運命的な意味合いを感じます。

その小山さんは、インタビューの末尾でこう発言しています。

小山 「でもこういうのってヒットしないですよね、僕が言うと怒られるけど(笑)。」

これに対し、インタビュアー(塩田時敏)は「いや、ヒットしますよ。」と断言していて、その通りになりました。すばらしい。

俳優が企画を持ち込み、ピンク映画出身の監督と、映画と無縁のライターが作った作品。これが黒澤明(1975年のソ連映画『デルス・ウザーラ』)以来の米アカデミーを取ったことの意味は大きいですね。日本の文化・芸能業界が”いろめがね”をはずし、”セクト主義”をぶっ壊すことができれば、『おくりびと』のあとに続く作品がどんどん出てきそうな気がします。

小山さんは、「舞台は山形県の庄内、職業は納棺師」という条件だけでスタートさせ、取材と資料の読み込みで完成させたそうで。冒頭のつかみに持ってきている「男化粧か女化粧か」というネタも、実際にあった話をもとに、「アレ」を確認するフィクションをトッピングして…という具合だそうです。

前置きで思わず長々と語ってしまいましたが、ここまで書いたことは全部、もちろんそのほかの面白い裏話も、『シナリオ』に載っています。興味のある方はぜひご一読を。品薄なようですが、図書館に聞くか、発行元のシナリオ作家協会に問い合わせると、手に入るかもしれません。

で、本題の内容についてです。

いまさら私がどうこういうことでもないのですが、『おくりびと』の構成はとてもわかりやすくできています。これまで海外で評価されてきた芸術系の日本映画と違い、完全に娯楽映画の立場で撮ったことがよくわかるつくりです。なんてことはすでに言われつくしているので、私は<好きなセリフ>を2つピックアップして、感想文を書きたいと思います。

※シナリオと映画本編は、制作上の都合で、必ずしも同一ではありません。

<好きなセリフ1>
チェロ奏者だった主人公・大悟は、1800万円もの大借金をして最高級のチェロを買った途端、所属していた楽団が解散。故郷に帰ることを決意し、チェロを売り払った場面です。

大悟M 「チェロを手ばなした途端、不思議と楽になった。今まで縛られていたものから、スーッと解放された気がした。所詮、人生なんて、そういうものだ」

リアルです。何かを手ばなす決断をして次のステージに進んだ経験のある人なら誰でも、このセリフで一気に主人公に感情移入し、応援したくなるのではないかと思います。

『おくりびと』は納棺師という独特の職業モノ崩壊と再生を描いた家族モノ、という側面に光があたっています。そうした物語はすべて、大悟のこのセリフからスタートしているんですね。

どんなにがんばっても、自分ひとりの力ではどうにもならないことがある。それがふりかかってきたとき、どうやってそれを乗り越え、あるいは回避して生き延びていくか。また、なんで生き延びていかなければいけないのか。映画の軸足は徹底してここに置かれています。

大悟だけでなく、妻・美香(広末涼子)も、社長・佐々木(山崎努)も、事務員・上村(余貴美子)ほか、すべてのキャラクターが、同じテーマを抱えて登場しています。

小うるさい人なら、「これだけ同じパターンのキャラばかり出てくるってのはどうよ?」ぐらいのことを言うかもしれません。でも、書き分けと構成・配分がしっかりしているので、ダブリ感がぜんぜんないんですね。むしろ、娯楽映画の生命線である”わかりやすさ”を担保するしかけになっていると思います。

<好きなセリフ2>
大悟がいきなり採用されて、事務所で上村と棺おけの値段の差について会話する場面。

大悟 「素材と飾りの違いだけ、ですか?」
上村 「そう。燃え方もおんなじ、灰もおんなじ。人生最後の買い物は、他人が決めるのよ」
大悟 「なんだか、皮肉ですね」


このやりとりだけで、大悟が素人、上村がベテランというのがすぐわかりますよね。大悟が素人なのは、「~ですか?」と聞いているからではなく、「皮肉ですね」と感想を述べているからです。

葬儀関係のベテランであれば、「葬式は生きている人間のためのもの」ということが身にしみているはず。だから上村は、事務的に「他人が決めるのよ」と言っているわけです。それは皮肉でもなんでもなくて、彼らにとれば当然の感覚なんだと思います。

いいなあ、このドライな感じ。「私の死後はどうこうしてくれ」とか言って、遺言状なんかも残しちゃったりして、そういうのは法的にも拘束力を持つからむにゃむにゃ、なんて私はあまり好きではありません。何かを言い残しても、その通りになったかどうかは確認できませんから。たとえ死後の世界から確認できるのだとしても、手出しはできませんから、指をくわえて見ているだけです。

そんなことになるよりは、残る人に「あとはまかせた!じゃ!」と言って”生の世界”を引退するほうがいいよなあ、なんて常々思っております。幸いなことに、日本は、1円も持っていなくても葬式をしてもらえるシステムをもっている国です。残る人たちがそれでいいならそれでいいし、1000万円かけて派手派手しくやりたいならそれでもいい。自分の葬式のことなんざぁ、知ったこっちゃありませんぜ。というのが私の本音です。

そんな私がもし誰かの葬式をまかせられたら…やっぱり、(亡くなった人が同じ考えでない限り)世間並みにしようとするのかもしれませんが(笑)

ちなみに、採用直後は素人感覚だった大悟ですが、経験を重ねるにつれて「葬式は生きている人間のためのもの」という職業観を身につけ、感動的なラストシーンへとつながっていきます。こういうスキのない構成力がこの映画の大きな魅力ですね。


とまあ、相変わらず、長々と書いてしまいました。しかもなぜか、♪ケ~セラ~セラ~と口ずさんでしまいました。そういう前向きな気持ちになれる映画だと感じます。映画館がもうちょっとすいたら、観に行くつもりです。

(追記)
小山さんはインタビューで、こんなことも述べています。

「最近のTV局主導の映画って、明らかに放送法に違反してますよね。電波や番組をメディアジャックして。商店が自分のとこの商品食ってるようなもんでしょう」

↑こういう指摘は、どれだけ大物になってもビシバシやり続けてほしいと思います。


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『杉田』 魔王が語る魔界の物語 [レビュー]

いまさらですが、杉田かおるが2005年に出した自伝…というより、”本人の手による本人”の暴露本を読みました。

杉田

杉田

  • 作者: 杉田 かおる
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2005/03
  • メディア: 単行本

この真っピンクな装丁にカバーもかけず人ごみの中で読んでいるわたしはそれなりに大人になったのだなあ、と思ってみたり(謎)

杉田かおるは以前、『すれっからし』という自伝…というより(以下略)を出しています。

すれっからし (小学館文庫)

すれっからし (小学館文庫)

  • 作者: 杉田 かおる
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 1999/03
  • メディア: 文庫

↑これもそれなりにすごい(他人には面白い)話です。ただまあ、想定の範囲内だよなと思わせる”子役の苦労話”だったので、『杉田』が発売されたときには「二匹目のドジョウか」と思って読まなかったのです。

それをなぜいま?実は先日、↓この本を読んだんですね。

文芸誤報

文芸誤報

  • 作者: 斎藤 美奈子
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2008/11/20
  • メディア: 単行本

以前にも少し書きましたが、斎藤美奈子の書評はたいてい読んでいます。いまの日本でもっともバランス感覚がすぐれている評論家のひとりだと思います。ベースにあるのは左派よりのフェミニズムですが、その手の臭気を出す人々とは一線を画していて、信頼を置けます。

ただ、『文芸誤報』そのものは、ほかの著書と比べてたいして面白くありません。朝日系列のメディアで連載した書評をまとめた本ですが”商品カタログ”の域を超えていないからです。ネームバリューにのっかったお手軽仕事に思えてしまうのが残念です。

それはさておき、この本で取り上げられていたうちの一冊が『杉田』だったんですね。いやー、たまげました。『すれっからし』では書かなかったことを書いた、というだけのことはあります。

『杉田』は大きくわけて3部構成になっています。

前半…天性の詐欺師である父親(実は養父)のせいで20代で1億円もの借金を背負う話
中盤…”ある教団”に入って広告塔になり、高揚感→疑問→絶望というプロセスを経て脱退する話
後半…日テレの24時間テレビ100キロマラソンを走ったときの話


文章は正直、うまくありません。時系列がばらばらで、話が行ったり来たり繰り返されたりして、読みづらいところもあります。奥書に「構成/文 由井りょう子」というクレジットが入っているのでゴーストライターの手が入っているんでしょうけど、わざと素人っぽさを残した(出した)のかもしれません。ただ、素人っぽいだけに、なかなかのリアリティーと迫力を感じます。

でもって、3部構成の話はそれぞれにつながっていて、その中心にあるのが「ある教団」です。本の中では一度もこの教団の固有名詞は出てきませんが、「創価学会」であることは誰が読んでもわかるように書かれています。

杉田かおるに借金を背負わせた養父は創価学会員で、実母は日蓮正宗の信者。ということが背景にあって、杉田かおる自身は、”子役上がり”で仕事がなくなった時期と事務所の移籍問題や借金が重なり、日蓮正宗に入信→創価学会の活動へ従事と突き進んでしまったわけです。

しかし、池田大作とその取り巻きの正体が見えてくるにつれ、心身に異常をきたすようになってしまいます。25歳のときの日記では「人間、死ぬことも、別れも、病気もこわくないけれど、思想のみだれによって形成された人間性ほどつらく、苦しいものはない」とつづるまでになります。自分の日記からの引用ですが、この一文は刺さります。

その翌年、1990年には、池田大作が宗門である日蓮正宗を非難し、日蓮正宗教が創価学会を破門するという事件が起こります。ここで完全に創価学会に見切りをつけた杉田かおるは、そこから何とか逃れようと苦しむわけですが…という展開。

↑この辺の細かいところはぼかされています。創価学会の黒幕とのコネを利用して逃げ切ったことは示唆されていますが、それ以上は謎です。ただ、総選挙が迫っているいまこれを読むと、間違っても、公明党を政権与党にしておこうなんて考えなくなると思います。

杉田かおるは、テレ朝『ロンドンハーツ』で一時期よく、「組織の人間と戦っている(狙われている)」と冗談っぽく言っていました。それはきっと創価学会のことで、半分以上はマジ話だったんだろうなと想像できます(もしかしたら現在進行形かもしれませんが)。

で、びっくりしたのが100キロマラソンの話です。私は、バラエティの汚れキャラで再ブレイクに成功した杉田かおるが100キロを余裕で完走した(ように見えた)程度にしか思ってませんでした。

実際には、本番3日前にコースを伝えられ、それがいままで準備・練習していたコースとはまったく違っていて、家庭崩壊の思い出しかない街から、創価学会活動にのめりこんだ土地を通過して武道館にいたる、というものだったそうで。いやー、テレビ局ってえぐいことをするもんなんですね。『愛は地球を救う』なんて言いながら、見世物を盛り上げるためには愛もへったくれもないわけで。

『杉田』は結婚直後に出版され、半年後には離婚。出会ってから離婚までほぼ1年というあたりがテレビ的で、この辺はすべて、杉田かおるの計算のうちなんだろうなとも思います。セレブ婚として話題になったことでAERAの取材を受け、「ネタを必死に考えてセルフプロデュースをしていくのは想像以上に大変」というようなコメントもしています。

ただ、たとえ計算だったとしても、バラエティの汚れキャラ/『すれっからし』/100キロマラソン/『杉田』/結婚→離婚と、立て続けになりふりかまわず打ち出してはい上がってきたのは、それだけの地獄を見たからなんでしょうね。まさに死に物狂いという感じです(怖)

そんなわけで、『杉田』を読んだ私は、マジメにコツコツ労働しようと改めて誓ったのでした。←この辺の小物っぷりがちょっと切なくもありますが。


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映画『オーストラリア』が語る20世紀/ネタバレあり/めっちゃ長文 [レビュー]

毎月1日は映画の日。というわけで観てきました。いまの時期、外国語映画部門でオスカーを取った『おくりびと』をはじめ、ブラピ夫妻の『ベンジャミン・バトン』『チェンジリングやABBAで歌い踊る『マンマ・ミーア』などなど観たい作品がいろいろあってどれにしようかな…なんて考える前から決めていました。オーストラリア。なぜか動画を貼ることができないので、予告編は公式サイトでご覧下さい。

さて、結論から言うと、とても見ごたえのある映画でした。また観たい!と思っています。観客は中高年の割合が高かったのが印象的でした。

正直、観ると決めていたわりにはそれほど期待していませんでした。いつも眉間にシワを寄せているでかい女=ニコール・キッドマンと、やたら顔が小さくて目が離れているハチュウ類顔の男ヒュー・ジャックマンという、どちらもあまり好きではなかった2人の映画だったので。いやー、すみません m(_ _)m って感じです。

たしか前評判は高く、米アカデミー賞の候補とも言われてたんですよね。ヒュー・ジャックマンが「世界一セクシーな男」に選ばれたのも、この映画の出演があったからだそうで、先日のアカデミー賞では司会に抜擢されました。

たしかに、めちゃめちゃかっこいいです。40過ぎとは思えない体脂肪率が低そうな超マッチョぶりもさることながら(←けっこう強調されています)、キャラクターがかっこいいんですね。素朴でタフでリーダーシップがあって優しい自由人、という設定。近くにいた女子グループは、映画のあと、ずっとヒュー・ジャックマンのかっこよさについて話し続けていたほどです。断っておきますが、そんな男は地球上にいません(キッパリ)

ニコール・キッドマンはいつも通りの芸達者ぶり。眉間にシワを寄せながらコメディっぽいことをしてみたり、衣装を変えてがらりと変身してみたり。キスシーンで高い鼻が押されて(偶然)ブタ鼻になっていたところには笑いそうになってしまいました(←いい場面だったのでガマン)。

この2人、身長差が10センチぐらいあるようなんですが、ほんとかなあ?どっちもサバ読んでて、実は同じぐらいの身長なんじゃないかと。足はもしかしたらニコールのほうが長いかも(笑)

さて。この映画、地元オーストラリアでは初登場1位で、オーストラリア映画としては歴代2位の興行成績(1位は『クロコダイルダンディ』)だそうで。北米でも初登場5位に入り、興行的にも成功している作品です。ところが、なぜか公開と同時に、アカデミー賞の下馬評に上がらなくなり、最終的には、衣装デザイン賞にノミネートされただけ、という結果に終わったのです。

ふむ。なぜでしょう。などと考えてもわかるわけないのですが。冒頭のつかみが少しばかり悪趣味だから?カメラワークがどんくさい印象を受けるから?「すき間から向こうを見るときの目のアップ」みたいな似た構図が何度か登場するから?主役2人のキスシーンがたびたび唐突に発生するから?ジャンルわけしづらい映画だから?そんなことはどーだっていいと言ってしまえる良さがあると思います。

あるいは、もしかしたら、この映画を認めたくない人が少なからずいるのかも…と思ったりしました。裏づけは何もなく、ただストーリーからそう感じただけなのですが。人間は誰しも、あやまちを指摘されることを嫌いますからねえ…。

『オーストラリア』は一見、”女性の真の自立”を描いた作品のように見えます。公式サイト(日本語版)でもそのように紹介され、監督のバズ・ラーマン「”成長”と”生まれ変わる”という考えに興味を抱いた」ことが作成の動機になっているとされています。

↑これはまあ、その通りだと思います。そういう印象を受ける映画ですし、狙いは成功しているとも思います。ただ、ほぼすべての映画は「成長と生まれ変わる」ことについて描いているわけですし、「女性の自立」もいまや目新しいテーマではありません(だからアカデミーではずされたのかな?)。これだと、ただの凡庸な作品みたいに思えてしまいますよね。

しかーし!この映画のすごさはもっと違うところにある、というのが私の感想です。約3時間の長さで描かれているのは「20世紀の歴史とその克服」だと感じました。しかもそれが、1940年前後のオーストラリアを舞台に、欧米人でもアジア人でもない視点で描かれているところに新しさがあると思うのです。

「20世紀の歴史」を語る最重要のキーワードと言えば、「戦争」「差別」でしょう。『オーストラリア』も、この2つを軸にして物語が展開します。

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まずは「戦争」のほうのお話から。

この映画の構成は、大きく2つに分かれています。1939年からスタートし(←非常に重要)前半はイギリスからやってきたサラ(ニコール・キッドマン)が、地元っ子のドローヴァー(ヒュー・ジャックマン)の助けを借りて牧場経営を立て直すお話。後半は、北部の港町・ダーウィンが旧日本軍に空爆されるお話。

※ダーウィンは1942年に最初の空爆を受け、その後も60回以上の空爆を受けています。オーストラリアが他国から本土を攻撃されたのは、後にも先にもこのときだけなので、いまでも強いインパクトを持っています。

限定された地域で繰り広げられていた人間ドラマが、外部の敵の襲撃を受けて時代と結びつき、劇的に展開していくというパターンは定番の手法です。たとえば、チャン・イーモウの『紅いコーリャン』(1987)なんかもそうで、美女(コン・リー。大好き)と粗野な使用人と子ども、というパターンも『オーストラリア』とよく似ています。もしかしてこの構造を借りたのでしょうか。

ただ、『紅いコーリャン』が旧日本軍を明確に「敵」として描いているのに対し(←それでも従来の中国映画とは違った視点だったので、中国内で物議をかもしたようですが)、『オーストラリア』での旧日本軍によるダーウィン空爆は「天災」に近い描かれ方になっています(この辺もアカデミーをはずされた理由かも?)。後半の空爆シーンで誰が生き残り、誰が死ぬか。そこに注目するだけでも、『オーストラリア』が持つリアルで重層的な視点が見えてくると思います。

反戦平和や愛国心のような”いかにも”なものや、お涙ちょうだい的な感傷は、セリフにも行動にもまったく登場しません。戦争は誰にとっても悲劇だというリアリティと、それでも、人は悲劇を乗り越えて生きていくものだというリアリティ。この2つが丁寧に描かれているところに好感が持てます。

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そして、もう一つのテーマ「差別」。いやー、すごい。3時間でここまで描ききることができるのかと思いましたよ。暗く重くなりがちなテーマですが、そうならないようにユーモアや救いをうまく織り込んで、楽しませる工夫があちこちにほどこされています。

この映画に登場する差別は、私が気づいただけで4つあります(1回観ただけなので、見落としがあるかもしれませんが)。しかもそれがぜんぶ結びついているのです。


1、白人>アボリジニ(人種差別)

冒頭と終わりで、「Stolen Children」(以前書いた記事はこちら)のことに触れているように、映画のメインテーマになっています。

※Stolen Childrenとは、白人によるアボリジニ同化政策の一つで、子どもを”野蛮な原住民”から隔離するために強制収容し、”立派なオーストラリア人”にしようとしたことを指します。

ただ、この映画では、単純なアボリジニ差別は脇スジとしてしか語られません。メインは「白人>アボリジニの構図のはざまに落ちた人間への差別」です。

準主役の男の子・ナラは、白人とアボリジニのミックスという設定で、白人社会からもアボリジニ社会からも受け入れられない存在として描かれています。「人種差別の中で、もっとも差別されるのはミックスである」という視点を取り込むことで、”白人が悪でアボリジニが善”というような単純な図式に落ち込まないようにしているんだと思いました。

ナラはミックスであるがゆえのさまざまな悲劇に見舞われます。でも、一貫して明るいし、賢いし、タフでかわいい。そして最後には、きちんと救いが用意されています。この救いの「どんでん返し」には意表をつかれました。「そういうことだったのか!」と。ミステリーもののような大掛かりな謎解きがあるわけではありません。こっちから見ていたものを反対から見ると違って見える、という地味などんでん返しです。でも、そこにこの映画のすべてが収れんされていくところが感動的です。

もう一つ、はざまに落ちた人間がドローヴァーです。彼は白人なのですが、恋愛結婚した相手がアボリジニだったという過去があるのです。そのために白人社会からつまみ出され、アボリジニ社会にはもとから受け入れられるわけもないという存在です。なので、本名も名乗らず、「drover」(牛追い)という呼び名でアボリジニと一緒に牛追いをしているという設定になっています。差別を”する”側の人間が”される”側の人間とくっつくと、差別される側になってしまう。これも「差別」の現実ですね。だから、一度生まれた差別はなかなか消えないんですよね。

映画では、この2人を結びつけることで人種差別の問題の根深さとむなしさを立体的に浮かび上がらせ、ラストシーンで一つの解決策までも提示してみせています。剛腕です。

2、男>女(女性差別、外見差別)

アボリジニ女性が白人の慰みものだと語られたり(←言葉だけ。場面なし)、主人公のサラがバーで「メンドリはあっちの店に行け」などとののしられたり。はたまた、サラがことあるごとに「顔は美人だが…」と陰口を叩かれたり。そういうわかりやすい差別は、これまた脇スジの話になっています。

でもって、メインは上流階級の舞踏会の場面です。ここではアボリジニやミックスの子どもたちを強制収容所に送るために、キリスト教会のチャリティーが行われていて、「女性(ここではサラ)と踊る権利」をオークションした収入が、寄付金にあてられることになっているのです

ほんとに貴族階級で↑こんなことが行われていたのかどうかわかりませんが、いやー、たまげました。最初の客が「5ポンド」と声をかけたあとに誰も続かず、司会者が「私の妻でも5ポンド以上の価値がありますよ」なんていう”ジョーク”を飛ばしたり。こういったことが「チャリティーのため」という一言で正当化されているわけですね。

つまり、

同化政策(差別1)→チャリティー(黒幕は教会、というところが重要)→舞踏会で女性と踊る権利をオークション(差別2)

という構図です。二つの差別が、権力・権威によって正当化され、結びつけられていることを示しているわけです。

一個人に過ぎないサラは、「政策」「教会」「チャリティー」という”正しさ”の前に、不本意ながらもNOと言えず、競り落とした相手と踊り始めます。そして巻き起こる拍手と賞賛。その中には大勢の女性たち(=上流階級の男の妻たち)も含まれています。女性差別の本質を鋭く突き刺したシーンだと思います。

しかし、ただやられっぱなしではありません。サラはこの状況をたくみに利用するしたたかさを見せるのです。20世紀を代表する思想にフェミニズムがありますが、その流派の一つにこういう考え方の人たちがいたような気がします。

フェミニズム的なセリフや行動は一切出てこないので、物語はヘタにそっちへ深入りすることなく進んでいきます。この辺のバランス感覚が素敵です。

3、イギリス>オーストラリア(植民地差別)

わかりやすい植民地差別は、冒頭のサラの登場シーンから見てとれます。イギリス貴族であるサラは、クソ暑いダーウィンの街(←熱帯気候)でもビシッとした正装で、やたらとたくさんの荷物を何人もの黒人に持たせ、背筋をのばしてツンケンした感じで歩いています。それを見た地元っ子たちが「貴族なんかがこの土地で暮らせるわけがない」などと陰口を叩くのです。

↑こうした脇スジの話があって、メインはサラとドローヴァーがケンカ別れするシーンです。サラの”意見”(←サラは貴族なので、”願い”ではなく”意見”なんですね)を受け入れず、また長期の仕事で家をあけようとするドローヴァー。もう一つ、ナラがアボリジニの習慣に従って一人前になるための旅に出たいと言い出したことに、サラは「危険だから」と反対し、ドローヴァーは「ナラを縛り付けておくことはできない」と反論します。

気持ちを素直に言葉にできないサラは、思わず「私はあなたに自由をあげたわ!でもそれはあなただからよ!ナラに同じことはできない!」と言ってしまいます。ドローヴァーは悲しい目でサラを見つめ、そのまま出て行こうとします。

気持ちが高ぶっているサラは、ドローヴァーの背中に向かって「どうしても出て行くのなら、もう戻ってこないで!」と叫んでしまいます。すると彼が立ち止まって振り返り、悲しい目のまま、「わかったよ。ボスは君だからなと言い残して去るのです。

このやりとり、もう完全に宗主国・イギリスと英連邦の一員・オーストラリアの関係のパロディですね。イギリス側が貴族女性なのは、もちろん、イギリス=女王エリザベスだから。対するオーストラリア側は、”いかにも”なヒゲ面マッチョの牛追い。

イギリスは各植民地に、100年かけて「自由をあげた」わけですが、それは飼い殺しにして影響力を維持することが前提だったのです。しかし、そう都合よくいくわけもなく、ほとんどの国は独立し、主権国家へとなってイギリスのもとを離れていきました。ドローヴァーは映画の中で、繰り返し「俺は誰にも雇われない」と主張します。これはまさに、1940年代のオーストラリアの国内世論(オーストラリアはイギリスの属国ではない!)につながっているセリフだと思います。

また、この場面でのサラのジレンマは、2で書いた舞踏会の場面が伏線になっています。男>女で弱い立場にある女性・サラと、イギリス>オーストラリアで強い立場にある宗主国の貴族・サラ。この2つがサラの中でこんがらがってしまったんですね。このときのヒュー・ジャックマンの目の演技は一見の価値ありです。

4、貴族>使用人(階級差別)

3の差別も階級差別の一つとみなせるわけですが、もっとはっきりとしたケースが敵役・フレッチャーを通じて描かれています。

このフレッチャー、もともとはアシュレイ家(サラの夫の実家)に祖父の代からつかえている使用人で、牧場の管理を担当していました。トラブルがきっかけでサラにクビを申し渡され、アシュレイ家のライバルであるカーニー家に寝返ります。

もともと、カーニー家の娘と結婚して跡継ぎにおさまる野望があったフレッチャーは、アシュレイ家を陥れて手柄をたてようとしますが失敗。カーニーからもクビ同然の扱いを受けます。しかし、彼はなんとカーニーを殺害して娘と結婚し、牧場の経営権を握ってしまうのです。

フレッチャーの悪事はこのあとも続くのですが、そのたびに彼は「Pride is no power」と繰り返します。この映画の字幕語訳は、字幕”誤訳”が多いことで知られる戸田奈津子です。フレッチャーの言葉は、「気位は力にならない」と訳されていました。えー…って感じです。ふつうに「プライドは無力だ!」のほうが、フレッチャーのキャラにもあってて伝わるんじゃないかと。そのほうが字数が少ないですし。

※戸田さんはほかにも、ドローヴァーが「俺はdingo(←何千年も前に野生化した犬。「ろくでなし」という意味のスラングにもなっています)みたいなもんだから」と言った場面を「俺は野良だから」と訳したり、サラが「馬のなんとかかんとか」というどきっとするような卑猥なののしり文句を言った場面を「あきれた」と訳したり。今回もやりたい放題でした。

それはともかく、フレッチャーを悪行に駆り立てているのは階級差別への怒りと挑戦です。「三代にわたって働いてここまで金持ちにしてやったのに!」というアシュレイ家への怒り。「アシュレイ家を出し抜くために今まで利用されてやったのに!」というカーニー家への怒り。どれだけがんばって尽くしても、祖父や父がそうだったように、自分も永久に「使用人」から抜け出せないという絶望的な怒り。このマグマを「プライドは無力だ!」という言葉に集約させ、ついにはダーウィンで押しも押されぬ名士にのし上がります。しかしその結末は…。

とまあ、こんなふうに、4つの差別がこんがらがり、ときには強者が弱者に、弱者が強者に入れかわりながら話が進んでいきます。どれか一つだけでも充分に映画のネタになりそうですが、それを組み合わせて破たんなく描ききっているところに拍手です。

しかも、全編を通してドライで明るいトーン。差別にからんで悲劇的な死が何度か出てきつつも、決して重く湿った雰囲気になりません。この空気感が最高にオーストラリアっぽい!と感じました。

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最後に。

この長くて複雑に重なり合ったドラマをひとつにまとめているのが、アボリジニの呪術師でナラの祖父でもあるキング・ジョージです。その存在の意味は、映画のラストシーンで本人の口から短く語られます。

そしてもう一つは「歌」です。アボリジニにとっての歌にはさまざまな役割があります。祈り、魔よけ、自然との会話などのほか、「地図(縄張り)」も歌で記憶しているのです。そうやってほかの部族と争いにならないように工夫してきたわけですね。彼らの神である「虹の蛇」との交信や、宗教・思想である「ドリーミング」にも歌が使われます。

でもって、映画の舞台となった1939年は、アメリカでミュージカル映画の名作『オズの魔法使い』が封切られた年で、その挿入歌だった『Over the Rainbow』がヒットしていました。あることがきっかけで、サラはナラにその歌を歌ってあげることになります。その歌詞から、ナラは『Over the Rainbow』を「虹の蛇の歌」「ドリーミングの歌」と解釈します。以降、この歌は、映画の要所要所で非常に重要な役割を果たすことになるのです。

白人が作った歌が、アボリジニの宗教・思想と結びつき、登場人物たちの生き方に影響を与えていく。そのきっかけとなったのが、白人とアボリジニのミックスであるナラ。すごい仕掛けです。鳥肌ものです。この仕掛けとダーウィン空襲の歴史を使うために、物語は1939年から始まっているのです。

↑これがこの映画の最高にすごいところだと思います。ただ20世紀の歴史を語って終えるのではなく、その歴史をふまえて、21世紀はどういう時代であるべきか。それを一切の理屈抜きに、ただ「歌」を出すだけで伝えているのですから。

いやー、興奮して自分でもびっくりの長文になってしまいました。まだ書き足りないことがあるような気がしていますが、ひとまずここで。こんな長さでも見捨てず最後まで目を通して下さった方々に深く感謝いたしますm(_ _)m


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もし言葉が/谷川俊太郎 [レビュー]

いくつか持っている詩集のなかで、いちばんのお気に入りがこれです。

音楽でいえば「谷川俊太郎のベストアルバム」って感じの一冊です。教科書に載った『二十億光年の孤独』『朝のリレー』『空に小鳥がいなくなった日』も入ってます。素人時代の中島みゆきデビュー辞退を申し出るほど衝撃を受けたという『私が歌う理由(わけ)』も入ってます。

表題となっている『これが私の優しさです』は、私の物の見方、考え方の基盤になっています。そういう詩がほかにいくつもあって、『もし言葉が』もその一つです。

もし言葉が/谷川俊太郎(『あなたに』より)

黙っていた方がいいのだ
もし言葉が
一つの小石の沈黙を
忘れている位なら
その沈黙の
友情と敵意とを
慣れた舌で
ごたまぜにする位なら

黙っていた方がいいのだ
一つの言葉の中に
戦いを見ぬ位なら
祭りとそして
死を聞かぬ位なら

黙っていた方がいいのだ
もし言葉が
言葉を超えたものに
自らを捧げぬ位なら
常により深い静けさのために
歌おうとせぬ位なら


これと対になるような詩『沈黙』も収められています。

沈黙/谷川俊太郎(『六十二のソネット』より)

沈黙が名づけ
しかし心がすべてを迎えてなおも満たぬ時
私は知られぬことを畏れ―
ふとおびえた

失われた声の後にどんな言葉があるだろう
かなしみの先にどんな心が
生きることと死ぬことの間にどんな健康
私は神―と呟きかけてそれをやめた

常に私が喋らねばならぬ
私について世界について
無知なるものと知りながら

もはや声なくもはや言葉なく
呟きも歌もしわぶきもなく しかし
私が―すべてを喋らねばならぬ

メッセージを発信することの意義は、この2つの詩の中にあると思うのです。立場の違いは関係なく、マスコミでも政治家でも個人のブログのやりとりでも、それは同じことのような気がします。文章技術の有無も会話術の巧拙も関係なく、ただ必要なのは覚悟なんだろうなと。

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困ッタ夫ニ対スル妻ノ閉口 [レビュー]

Nスペシリーズをきっかけに、お気に入りの一冊を思い出し、久々に読み返しました。直接の関係はないんですけど、妙にはまるのですよ、これが。

大正時代の身の上相談 (ちくま文庫)

大正時代の身の上相談 (ちくま文庫)

内容は、タイトル通り、大正時代の読売新聞に掲載された庶民の身の上相談です。読売は、いまでこそ発行部数(公称)が日本一ですが、当時(~戦後まで)は関東地方のローカル紙でした。なので、この本で紹介されている”お悩み”の主たちは、たぶん関東在住の小市民たち。下世話な話題がてんこもりで(←編者がそういうものを選んでいるのもあるでしょうが)、かなり笑えます。

お悩みに回答しているのは記者ですが、率直でかざらない一生懸命さがまた笑えます。当時の新聞記者のステイタスはかなり低かったようで、しかも、読売は”大衆紙”でしたから、ヘタに気取る必要がなかったんでしょうね。

たとえばこんな感じ。

ミカンを二十個一度に食べる夫 一カ月ニ一人デ五箱モ…… 
大正四年(一九一五)一月三十一日


私の夫は当年二十八歳で(中略)、毎朝、朝飯がまずいと言って食べません。ただ牛乳を一合飲んで出て行きます。午後四時半頃に帰宅して、夕食をすませるとミカンを一度に二十個くらい食べます。甘い物は食べませんが、何か衛生上悪いことはないでしょうか。私は昨年結婚したばかりで、夫の好みの食物がわかりませんが、非常に水菓子が好きなようです。今年になって、五箱もひとりで食べてしまいました。

<回答>
(前略)そうそうミカンばかり食べては体のためになりません。それゆえ、ミカンのほかにリンゴなども食べるようにお勧めなさい(後略)。

↑これ、お気に入りの一品で、何度読んでも笑えます。記者は、「衛生上」(=健康上)どうかと聞かれたので、仕方なく「リンゴも食え」と回答しているわけですね。でもほんとは、「夫」が朝ごはんを食べなかったり、ミカンをアホみたいに食ったりするのは、太字のことが原因のはずなのです。

Nスペでは「女は表情から感情を読み取る能力がすぐれている」とやってましたが、そうでない人もいるわけで。やっぱり性差よりも個人差のほうが大きいようですねー。がんばれ新婚!

ほかにも、
○「尻がでかい」と悩む少年
○不良少女から裸写真を送りつけられて進学に失敗した青年
○部屋中だけでなく子どもたちにまで消毒剤をふりかける潔癖症の妻を持つ夫
○医者として成功したが孤独だという独身・R35の女
など、大正時代の庶民も今と変わらずお悩みだらけです。

なのになぜか、つい笑ってしまうんですよね。他人の不幸は蜜の味だからでしょうか。それとも、大正時代の庶民のマジメさが、ちょっとうらやましいからでしょうか。

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映画『相棒』、この映画の”関係者”は私たち/ネタバレなし [レビュー]

公開初日の1回目、満席でした。若者から老夫婦まで、車イスの方々も見かけました。エンドロールが終わっても席を立たたない人たちが多く、帰り際の人々はみんな、何かを抱えた表情で言葉少なでした。

この映画の関係者はすべての国民、つまり、私たちです。

映画がほかのメディアと決定的に違うのは、不特定多数の人たちと一緒に、一つのスクリーンで作品を観る点でしょう。そういう意味でこの映画は、映画館に足を運んでみることにこそ意義があります。

8年続いているテレビシリーズでもメッセージ性の強いテーマを何度も扱っていますが、今回はその系譜の集大成と言えます。この映画は、映画の特性を最大限に活かして、直球勝負を挑んでいます。全貌が明らかになった時、映画館のあちこちで咳払いやすすり泣きが聞こえました。そのすべては、おそらく、苦い涙だったと想像します。

テレビシリーズのキャラは健在。俳優陣も息のあった演技を見せ、アクションも充実しています。水谷豊と寺脇康文が宣伝であちこちの番組に出ていたときに、スタント無しの火のシーンで水谷豊が間一髪だった」と語っていましたが、映像を見るとまさに間一髪。よく無事だったなと思うほどでした。

箸休め的に、笑いの要素やテレビシリーズでのネタへの言及もあちこちに織り込まれています。これも8年間の蓄積があってこそ、ですね。テレビシリーズではこれまで、何人もの脚本家、プロデューサー、監督たちが制作にかかわっていますから、映画はそういう意味でも集大成だといえます。もちろんこれは、コアなファン向けの情報。映画は、テレビシリーズを知らなくても充分に楽しめる内容です。

語りたい感想、体験は山ほどあるのですが、公開初日にネタばらしするわけにもいかないので、いまは控えることにします。一つだけ、先日、尼崎のJR事故の記事で書いた言葉を繰り返します。忘れないこと。それが死者を悼む唯一の方法です。


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東京大空襲/日テレは何をしたかったのか [レビュー]

日テレ開局55周年ドラマと大々的にキャンペーンされてた東京大空襲』、がまんして2夜連続で見ました。時間の無駄でした…orz 日テレのHPでほとんど情報がなかったのは、日テレ的にも「これはだめだ」ってできだったからなのではと妄想してしまうほどでした。おなじ開局記念モノだったら、テレ朝がやった『点と線』のほうが圧倒的に良かったと思います。

まず、脚本がどうしようもない。戦争モノに若者たちの恋愛群像劇をぶちこもうとしたせいで、時代感覚がまったく感じられない安っぽいドラマになってしまってました。やたらと見つめあいながら臭いセリフを言い、そのあとに爆撃や機銃掃射で殺される、というワンパターン。東京大空襲のドラマって言われても、大滝秀治のナレーションがなかったらわかんねーよ!と毒づいたりして。

まあ、最初からナレーションで「これは愛の記録である」ってな具合だったから、だったら設定が東京大空襲である必然性はなかったんじゃないの?って感じです。長い年月をかけた取材と情報収集に基づいた「あり得たはずのフィクション」という触れ込みでしたが、だからってそれを羅列したら真実に近くなるのか、という基本的なところで間違っているドラマでした。

時代考証もあちこち謎だらけだったし、女優はみんなばっちりメイク、着物はきれいで赤ちゃん栄養状態満点で、映像はCG丸出しで。大体、テレビドラマで大規模な戦争モノの映像を見せるのは無理なんだって。白黒テレビの時代ならまだしも、ハイビジョンの時代だとうそ臭さが際立ってしまいます。テレビでやるなら、その特性をいかして、セリフ回しで心理状態をきっちり描写するべきなのに。

また、俳優陣がどうしようもなかったと思います。演技と呼べるものをしていたのは、

第1夜の空襲の夜の
真矢みき

病院が焼け崩れたシーン。恐怖と悲しみでパニックになりそうな自分を必死に押さえ、「逃げましょう!」と叫ぶ演技は、このどうしようもないドラマ全体で、唯一、見る価値があった演技だと思います。

しかーし!それを台無しにしたのが浅野ゆう子。なんでこの臭い演技しかできないコメディエンヌに本格派の真矢と同じシーンで同じ演技をさせたのか。真矢で高まった緊張が浅野でだらけ、カメラはまた真矢を写して浅野、の繰り返しで、しまいには浅野が痛々しく見えてしまいました。

第2夜では、ラストの大滝秀治吉行和子、それに死ぬシーン限定の岸恵子森本レオ、ぐらい。

朝鮮人を演じた瑛太は演技力がある(はず)のに、脚本がおかしいのと、演出もまずかったのか、セリフにうまく感情をこめられてなかった(屈折感が中途半端だった)ですね。スパイ容疑をかけられて地下にもぐった朝鮮人役なのに、あんなおしゃれなドレスシャツやベスト(あの時代だとチョッキか)着せられたら、そりゃあ演技もできなくなるって。もったいない。

帰還兵役の麒麟の田村裕が、まったく演技をしていないのに、すべての出演者の中で一番、あの時代にいそうな自然な感じに見えたのが驚きでした。偶然はまっただけなのか、もしかしたら演技の素質があるのか。どうも後者のようなにおいがします。

この手のドラマや映画作りは、今の時代は、中国や韓国のほうが圧倒的にうまいと思います。日本も、東京、大阪、名古屋などの大空襲の生き証人がいる間に、本気で能力と技術を結集して、後世に残る作品を作ってほしいと思います。


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倚りかからず/茨木のり子 [レビュー]

倚りかからず

倚りかからず                            



 

学生で今よりもお金がなかった頃に、どうしても欲しくて大学生協の本屋を小一時間もうろうろした思い出の一冊です。いやー、今から思えばずいぶん”昭和”な学生だったなあ(笑)。パソコンどころか携帯も持ってなかったのに、本にはお金を使ってしまう暮らしでした。

「倚りかからず」は、「もはや」と書き起こし、できあいの思想、宗教、学問、いかなる権威にもよりかかりたくないと続きます。茨木のり子がこの詩を書いたのは73歳の時。19歳で敗戦を迎え、”わたしが一番きれいだったとき”に世の中が激変してしまった体験を経て、それから半世紀以上、「じぶんの耳目/じぶんの二本足のみで立っていて/なに不都合のことやある」との矜持を保ち続けたんですね。

この詩集が出版されてすぐぐらいに、皮肉にも”天下の朝日”の天声人語で取り上げられました。その結果、”大御所詩人の久々のお言葉”的なノリで奉られてブレイク。詩集としては異例のベストセラーになったのでした。後に文庫化(ちくま文庫)もされているので、そちらは単行本の半額以下で手に入ります。これで良かったのか悪かったのか。茨木のり子が天声人語を読んだかどうかわかりませんが、読んでいたら「不都合だ!」という表情をしたのではないかと妄想します。 

茨木のり子の有名な詩といえばもう一つ、「自分の感受性くらい」がありますね。

自分の感受性くらい

自分の感受性くらい

  • 作者: 茨木 のり子
  • 出版社/メーカー: 花神社
  • 発売日: 2005/05
  • メディア: 単行本

私の手元にあるのは2000年に出版された第21刷。布張りをパラフィン紙でカバーした装丁の箱入りで、20世紀最後の年の版なのに、これまた昭和のかほり。いま、こういう装丁の本ってなかなかないですよね。

「自分の感受性くらい」では、心が乾いていくこと、気難しくなっていくこと、苛立つこと、初心消えかかること、こうしたことを周囲の人や暮らしのせいにするな、と繰り返しつづられています。

その第5連から第6連。

「駄目なことの一切を/時代のせいにはするな/わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ」

心が折れそうになるといつも、この詩が浮かんできます。


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『ビッグファットキャット』シリーズ [レビュー]

※レイアウトが崩れてます。すみません。。。 

 

英語を学ぶにもいろいろ目的があると思うのですが、そのとっかかりにおすすめしたいのが『ビッグファットキャット』シリーズ。いわずとしれた2002年の大ベストセラーで、準備偏(←と勝手に名づけた)は発売3ヶ月で150万部が売れたそうです。物語は第1巻から第7巻(2004年)で完結しましたが、いまも売れ続けている評価の高い本です。

 

準備偏がこちら↓   

ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な英語の本

 

どの英語の教科書よりも、英語の本質を分かりやすく説明しています。しかも文法用語はゼロ。英語を英語のままで理解できるよう、丁寧に誘導されています。私はこのシリーズを読んでからシドニーに行ったのですが、とても役に立ちました(←シドニーにもって行けばよかったと思ったぐらい)。

 

私は中高生のときの異常な英語教育(←主に塾)で、英語の基礎の部分が混乱したまま大学生になってしまって非常に苦労した経験があります。この本を読んだときに、「なるほどね!」と感動したのと同時に、「こんなふうに最初から教わりたかった」と強く思いました。英語の文法って、近代日本語と比べると信じがたいほど簡単です(=近代日本語は文法が壊れているので信じがたいほど難しい)。

 

しかーし!このシリーズのすごいところはそれだけではありません。準備偏からすでに物語が始まっているんですね。

 

テーマは「人生」。主人公のエド青年は心優しいパイ屋さん。大きな街でサラリーマンをしていたのですが、「おいしいパイを焼くパイ屋さんになりたい!」という長年の夢を追って会社を辞め、念願かなって小さな街に自分の店を開いたのでした。まさにDream comes trueなんだけど、なんか違う。客は少なく、やって来るのはいつもデブで凶暴で無愛想な猫。ブルーベリーパイばかり狙って食い荒らし、エドのことなんかてんで気にせず、ついには居座ってしまいます。そんな日常にある日、背の高い灰色のソフト帽をかぶった男が現れて…。

Big Fat Cat and The Mustard Pie (BFC BOOKS)Big Fat Cat GOES TO TOWNBig Fat Cat AND THE GHOST AVENUE (BFC BOOKS)BIG FAT CAT AND THE MAGIC PIE SHOP ビッグ・ファット・キャットとマジック・パイ・ショップ (BFC BOOKS)Big Fat Cat vs. MR.JONES (BFC BOOKS)ビッグ・ファット・キャットとフォーチュン・クッキー (BFC BOOKS)BIG FAT CAT と雪の夜 (BFC BOOKS)
物語が進むにつれて、少しずつ文章が長くなり、単語に振られている日本語ルビは減っていきます。それにあわせてエドの人生観も少しずつ深まっていき、「英語力アップ→エドへの共感が強まる」という相乗効果を生み出すしかけになっています。児童文学の体裁でとっつきやすくしていますが、扱っているテーマは普遍的で、子供よりもむしろ、人生をある程度の年月歩んできた大人のほうが感情移入できると思います。
レイアウトは一種の「絵本」なので、全ページに絵があります。それを見れば地の文(ナレーションの部分)は理解できるようになっています。巻末には一文ごとの解説がついているので、何度読んでも分からない文章はここでチェックできる親切設計です。
さらに重要なのは、物語の中にリアルな会話文がたくさん含まれていること。心優しいエドの話し方、エドの仲間やライバルの話し方、年配の人の話し方、マスメディアの放し方、などいろいろな人の会話が出てきます。子供向けに書かれた本の場合、どうしても会話文が”道徳的”になりがちですが、このシリーズはとてもリアル。この辺りが物語を読む醍醐味で、受験英語やTOEICでは絶対に身につけられない分野でもあります。
そのほかにも、ショートマンガや、ショートストーリー、パイのレシピ、おすすめ本の紹介など、さまざまな”おまけ”がついているのがうれしい。繰り返し読みたい気持ちにさせてくれます。公式ホームページでは「CD版企画」もあると書かれてますが、今の所はまだのようで…。出してほしいなあ。

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